【ライフセービングとの出会い】
私は幼い頃から水泳を習っていました。全国大会には程遠い競泳人生でしたが、中学生のとき日本体育大学荏原高等学校の水泳部の練習に何度か参加し、そこへ進学することが決まりました。
当然、部活動説明会も迷わず水泳部の教室へ行きました。すると当時中学生だった私の面倒を見てくれていた1つ上の先輩の姿がありませんでした。その先輩は水泳部を辞め、ライフセービング部に所属していました。
「一緒にライフセービングやろうよ!」先輩からそう誘われて、なんとなくライフセービング部の教室に行きました。そして顧問である北矢宗志先生の話を聞いて、すぐに入部を決めました。
あの先輩の一言が無ければ、今私はこの文章を書いていないでしょう。
高校3年間では、ひたすら部活に打ち込みました。正直、勉強なんてろくにした覚えもありません。部活をやりたい。大会に出場したい。メダルを取りたい。そのためにテストで赤点は取れない。北矢先生に怒られる。怖いからやだ。だから仕方なく勉強も頑張る。こんな日々を過ごしていました。
高校3年間は青春でした。ってよく言うと思います。間違いなく私もそうです。でも私が経験した高校3年間は間違いなく、誰よりも熱く、尊く、美しい時間でした。

何をやっても初めてのことばかりのあのワクワク感。波に乗れた時の爽快感。フラッグを取ったときの達成感。全てが新鮮でした。
そして1年生で初めて合宿で行った新島。ライフセーバーの聖地とも言われ、北矢先生が大学時代に所属していた浜でもあります。都心とは違った温度感、景色に心を躍らせながらも、目の前に立ちはだかる羽伏浦の波。波の高さも、パワーも桁違いでした。
あの海で行ったレスキュー練習は今でも忘れません。私にライフセービングの厳しさ、自然の恐怖を教えてくれた瞬間でした。
大会でも徐々に成績を残し、もっと本気でライフセービングをやりたい!と強く思いました。同時に、北矢先生の姿に憧れて体育教師の道を志す気持ちも芽生えていきました。

その後日本体育大学に進学し、浜は高校生時代たくさんお世話になった岩井ライフセービングクラブに所属。しかし大学1年生は新型コロナウイルスの影響により全大会中止。もちろん夏の監視活動も行えませんでした。
2年生になり、少しずつ行動制限が緩和されて学校練習や海練習が始まりました。憧れていた大好きな先輩たちの背中を必死に追いかけて死に物狂いで練習をしていたら、いつの間にか4年生になっていました。
全ての行事に「最後」がつく年。最後の大会。最後の練習。最後の夏。4年間無事故で夏の監視活動をやり遂げたこと。インカレでメダルを取ったこと。たくさん海で、プールで練習したこと。たくさん仲間と飲みに行ったこと。全てが最高の思い出です。
そんなライフセービング漬けの日々を送っていた私も、目を逸らし続けていた就職活動というビッグウェーブが立ちはだかりました。しかしそこで新たな出会いがありました。

【今の私とライフセービング】
私は現在、昭和第一学園高等学校の保健体育教員をしています。そしてライフセービング部のコーチとして活動に携わっています。日体大ライフセービング部の大先輩でもある丸田重夫先生の元、教師として、ライフセーバーとして学び多き日々を過ごしています。
時代とともに変化する教育の在り方と、ライフセービング的思考を上手く組み合わせることが今の私にできることだと思っています。
教わる立場から、教える立場になった今、限られた環境の中で人間として、ライフセーバーとして必要な知識、技術を生徒と共に模索しながら日々活動に励んでいます。
恩師であり、大先輩であり、憧れの北矢宗志先生と同じ道を歩めていること。そこで丸田重夫先生と出会ったこと。全ての縁に感謝しています。『ライフセービング』という存在が、今の私をここまで繋げてくれました。

【最後に】
私は別に有名な選手でもないですが、このように形として残せる事がとても嬉しいです。私が今もライフセービングを続けている理由は単純です。
この活動が大好きだからです。
この言葉に尽きるし、これ以外の言葉も見つかりません。この活動に限らず、自分の好きな事を続ける理由なんて、これしかないと思います。だから、高校生という無限の可能性を秘めた生徒たちにライフセービングをもっと好きになってほしい。その一心でこれからも生徒たちと向き合い続け、共にライフセービングの普及、発展に貢献していきたいです。

日本体育大学荏原高等学校ライフセービング部(5期)
日本体育大学ライフセービング部(37期)
岩井ライフセービングクラブ所属
昭和第一学園高等学校 保健体育教員
ライフセービング部 コーチ