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オーストラリア・豪日交流基金の支援と日本のライフセービング:久松晶子

2021.12.02 (Thu)

国際交流

1983年。日本のライフセービングがギアをあげた。

どうギアをあげた?

 

海だ、レスキューだ、仲間だ。

知りたい。

組織の構築、統一されたマニュアル作り、指導者養成、トレーニング方法、さらに各クラブの運営方法、と何もかも。アァ、それから大会の開催の実施まで。学びたい。もっともっと!

 

なら、ライフセービング歴76年のオーストラリアはどうですか。

オーストラリアの浜と日本の浜で実際にトレーニングをし、パトロールをし、日本に最適な方法を見つけていくのはいかが?と、このライフセーバー同士の交流に、オーストラリア連邦政府の文化機関「豪日交流基金」が支援を申し出ます。

 

それは、日本のライフセービング界の歴史における実に画期的な出来事になりました。

 

まず8月、当時のオーストラリア協会(SLSAA)からGus Staunton, Warren Rennie, Ron Rankin役員3氏が1本のレスキューボードをお土産に来日。日本初のこのボードのトレーニングは、下田・吉佐美の浜でRon Rankin氏によって開始します。

05ロン氏ボード指導2

★Ron Rankin氏のレスキューボードのトレーニング@下田・吉佐美
写真提供:Ron Rankin氏

12月、夏のオーストラリアを10名の日本の関係者が訪問。日本赤十字社から参加の小島祐嘉氏は「オーストラリアは子供たちに海で遊びながら安全を教える技術が上手だ」と唸ります。また、同社の工藤孝志氏は「溺水事故を防ぐ体制が日本に比べしっかりしていて、とても羨ましかった」とため息。

前列左から4番目 ★小島祐喜氏
後列右から3番目 ★工藤孝志氏
写真提供:工藤孝志氏

さらに、日本から3人のライフセーバーがオーストラリア・クナラへ行き、実際のパトロールを体験しました。当時、下田で活動していた築山由雄氏によると、「黄色と赤の2本の旗の間が遊泳エリアで固定ではなく、安全なエリアに移動させている。

それにレスキューボード、レスキューチューブ、バック・ボード、酸素マスク、救急セットなどを積載した四輪駆動車、IRBと救助のための全てが揃い」実に効率的、かつ効果的に浜でのシステムが出来上がっていたそうです。

左端 ★築山由雄氏 一人おいてGus Staunton氏
右から2番目、★Ron Rankin氏
写真提供:Ron Rankin氏

また、同氏は「SLSA蘇生法の考え方は、たとえばもし女性や子供が、レスラーのような溺者に遭遇したら日本で当時教えられていた手でなくとも、足で心臓マッサージをするのもOKという考え方で蘇生の練習を中心に指導を受けた。一方、事故を未然に防ぐことを広く浸透させるという、海での安全を守るルール作り、モラル教育の必要性まで徹底されていた」と話されます。

 

ここから当時のライフセーバーたちはいっせいに邁進し、今日の全国展開を果たします。

 

Ron Rankin氏は、ライフセーバーとしてヘリコプター・クルーを長く勤め、SLSAの会長になり、日本の歴代の理事長と親しく交流し、日本との長い友人として2016年には日本ライフセービング協会に楯を寄贈されました。そのRon Rankin Awards楯は、日豪の交流の深さの証として日本のライフセーバー・オブ・ザ・イヤーの歴代のネームプレートが毎年加えられ、今、同協会の壁に掲げられています。

★Ron Rankin Awards楯

右下 日本ライフセービング協会の壁に掲げられているRon Rankin氏から寄贈された★「Ron Rankin Awards」楯
写真提供:ヒサマツアキコ

 

寄稿:久松 晶子(ひさまつ あきこ)

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1987年~大竹SLSC、湯河原LSC、下田LSCMaroochydore SLSC

勤務先の豪日交流基金がライフセービングを支援していたので、オフィスにいつもライフセーバーが訪ねて来ていた。そして、下田LSCのメンバーに大会を見に来てください、と何度も言われていた。1987年頃一人でこわごわプールの大会に行ったら、私のことを誰も知らないのに、たくさんのメンバーが飛び切りの笑顔で「こんにちは!」と声をかけてくれた。その瞬間、ライフセービングを、仕事を離れたボランティアとしてやりたい、と思った。

 

 

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