この度は、日本ライフセービング協会の設立30周年を迎えたこと、誠におめでとうございます。思えば1991年4月の設立パーティーでは、私は3月にオーストラリアから帰国したばかりで、真っ黒に日焼けした姿で出席したことを覚えています。
さて、茨城の各地域クラブを代表して寄稿させていただく機会をいただき、大変名誉であるとともに心から感謝しております。まずは、ここで活動が始まった経緯と私が考える地域クラブが目指すべき視点についてお伝えできればと思います。
茨城でライフセービングクラブが創設されたのは、私が筑波大学大学院に進学した際に、国立大学として初めて創部(1992)したことが始まりであり、翌年、鉾田町(現在の鉾田市)の大竹海岸鉾田海水浴場に地域クラブとして大竹サーフライフセービングクラブ(1993)が創設されました。また、同年に大洗サーフライフセービングクラブが大洗サンビーチと阿字ヶ浦海岸で活動を開始し、この2つの地域クラブと大学クラブが主な先駆けとなり、のちに地域クラブとして鹿嶋ライフガードチーム、波崎サーフライフセービングクラブが各地域の拠点として、また大学クラブとして茨城大学が活動を開始しました。
当時の茨城の海水浴場には、いわゆる「監視員」のアルバイトが従事しており、事故防止のための体系的なシステムは皆無だったと思います。また、ライフセーバーという言葉やその存在、そして役割などは理解されておらず、そこに女性が活動に携わることすらありませんでした。
茨城の鹿島灘一帯は、白砂青松の海岸が広がり、大きな波が押し寄せ、絶好のサーフポイントがある一方で、人工岬などで発生する離岸流で溺水事故が多発するという特徴があります。よって、海水浴場には欠かせない存在であるライフセーバーが、クラブとして組織され、安定した人材の確保などが可能になったことを考えると、海水浴場を管理する行政にとっても地域クラブへの期待は大きかったようです。
1993年は、冷夏と雨の日が多い夏で、とても厳しい環境で活動を行なった思い出があります。その様子は文藝春秋の「NumberベストセレクションⅠ〜SURF RESCUE〜(写真)」でノンフィクションストーリーとして取り上げられ、今でもAmazonで購入できるので、お読みいただければと思います。
1995年に、下田、湯河原、大竹を転戦する、「ライフセービンググランプリ(写真)」が開催されました(後に、九十九里でも実施)。茨城では大竹と鹿嶋のクラブが共催でホストとして運営に携わりましたが、大竹海岸に多くのライフセーバーが集結し、競技会が開催できたことに本当に感動したことが今でも記憶に残っています。また、この大会に金子理事長(当時)が視察に来られたことは、感謝の言葉に尽きると言っても過言ではありません。
茨城での活動が始まって約30年が経ちました。これからの地域クラブの役割は、幅広い年齢層のライフセーバーが集う拠点となり、ライフセービングをこれから始めたいという人たちの窓口として、その存在が求められるではないかと思います。そのためには、各クラブが自立し、組織として形成されたクラブとして成長することが大切であり、多くの人や他の組織と連携して、この活動に対する本来の目的や本質を追求し、形にしていくことが必要だと思います。
時間をかけながらも、やらなければならない多くの課題に取り組み、茨城のライフセービングが生涯を通してやりがいのある活動になっていくことは間違いないと思います。
寄稿:荒井 宏和(あらい ひろかず)
1989年~日本体育大学ライフセービング部、/新島LSC、筑波大学ライフセービング部(創部)、大竹サーフライフセービングクラブ(創設)
体育大学に入学し、それまで続けていた陸上競技よりも、新しいことを始めてみたいと思ったことをきっかけにライフセービングをはじめる。