ライフセービングってなんだ? どうやって人を救うのか? 水の事故をどうやって減らすのか? これらの問いかけに的確に答えを出すこと。そしてその実際を学ぶ機会をより多く作ること。教育プログラムを確立して、参加者を拡充して、より永く継続していくこと。それがJLA設立当時からの目標であり、今の“JLAアカデミー”の基本理念として受け継がれているものです。
豪日交流プログラム
’84年オーストラリア政府の助成(豪日交流基金)によって『オーストラリア サーフ・ライフ・セービング協会:SLSAA (現SLSA)』は、全都道府県で“救助員(英称:LIFE SAVER)”の養成を行なっている『日本赤十字社』(以下日赤)と5年間の交換プログラムを始めます。最初に“日赤水上安全法指導員(英称:WATER SAFETY INSTRUCTOR)”の代表が渡豪し研修を受け、“SLSAAインストラクター”が来日して講習指導をおこなうというものでしたが、日赤の配慮によってまもなく国内の窓口は日赤から『日本サーフ・ライフ・セービング協会 : SLSA of J (以下SLSAJ)』と『日本ライフガード協会 : JLGA』によって組織された『日本ライフ・セービング評議会 : JLSC』へと引き継がれ、研修修了者の中から“JLSCインストラクター”が誕生しました。
’85年に実施された国内最初の「ベーシック・サーフライフセービング講習会」は当時の世界連盟『ワールド・ライフ・セービング:WLS』公認でオーストラリア人のSLSAAインストラクターによって実施され国内で初めて“BASIC LIFEGUARD”(現在の“ベーシック・サーフライフセーバー”)資格が発行されました。これはSLSAAの認定講習会を日本国内で開催していこうとしたものではなく、“日本独自のライフセービング講習プログラム”として展開できるようにするためにSLSAAの寛大な配慮と協力によりライフセービング普及のためのノウハウと技術供与があってスタートしたものです。翌年から「アドバンス・サーフライフセービング講習会」も同時に開催され、JLSCインストラクターが主体となって講習指導・検定を行いJLSC認定資格が発行されることとなり’91年からは任意団体 『日本ライフ・セービング協会 : JLSA』、2001年より『非営利活動法人 日本ライフセービング協会 : JLA』 認定資格となりました。これが『JLAアカデミー』の原点です。
この最初の講習を受講した大学生たちがそれぞれサークルや同好会、部活動として積極的にライフセービングを展開し始めます。私もそのひとりでした。既に古くから活動をしていた日本大学、拓殖大学に東海大学海洋学部、東海大学湘南校舎、国際武道大学と続き、’86年最初の学生ライフセービング競技選手権大会を開くきっかけになり、さらに日本体育大学、専修大学、早稲田大学、成蹊大学などと、地域活動よりも先に学生のネットワークが年々広がっていきます。これは国際的にも例を見ない日本独自のものでした。
渡豪研修
“JLA”の発足と“JLAアカデミー”のスタートを振り返ると、私自身のライフセービングとの関わり方もそれに大きく関与することとなります。
豪日交流プログラムに続き ’89年1月にオーストラリアで「オーストラリアン・インターナショナル・ユースライフセービング・トレーニングキャンプ」(全豪各サーフ・ライフ・セービング・クラブの10代半から20代前半の若きリーダーのための7日間の合同合宿訓練)が開催され、それに参加する機会を得ました。早朝5時頃におのおの起床しプールで自主トレーニング、6時からスイムトレーニング。朝食後は午前と午後で海/プール/湖/屋内に分かれてレスキュートレーニングと蘇生法ならびにファーストエイドトレーニング。夕食後は講義、ワークショップ、ディスカッション、23時就寝というハードなものでした。実技ではヘリコプターレスキューやIRB、JRB、ORBなどのパワークラフト(動力救助器材)からサーフボート、サーフスキー、レスキューボード、レスキューチューブ、伝統的なリールレスキューまで SLSAAの持つすべての救助技術を体験し、講義ではSLSAAの成り立ち、組織体制、運営方法、普及・啓発・広報活動、スポーツ競技としてのライフセービング、抱える課題、さらには未来展望などを学びました。オーストラリアの安全思想とサーフライフセービングに関する膨大な知識・技術を吸収し「日本でこの体験を活かすことができないものだろうか?」そう強く思いました。参加したメンバーの多くがキャンプ終了後、全豪各地のクラブで活躍しています。このイベントの担当ディレクターでSLSAA執行役員の故『デニス・ヒューズナー』氏から「日本でライフセービングを普及展開していく上でSLSAJとJLGAはひとつになるべきだ」と言う助言をもらい帰国しました。
ライフセービング・リーダーズキャンプ
帰国後すぐに渡豪研修の報告会を行い、学科実技検定を経てJLSCインストラクターの認定を受けます。さらに日本版のトレーニングキャンプを企画しJLSC主催の「ライフセービング・リーダーズキャンプ」を開催します。2泊3日の合宿形式で SLSAJとJLGAの主要役員が講師を担当し両団体の会員約60名が集い、実技・講義やワークショップに参加し、未来のライフセービングを夜通しで語り合う場を作りました。サーフライフセービングをボランティアの“ライフセーバー”で展開していこうとする団体と、プロフェッショナルの“ライフガード”を養成し職業として確立させていくことを目指した団体と、それぞれの会員とが二つに分かれている意味があまりなくなっているのを、参加者の多くが強く感じる機会となりました。
SURF’90
同 ’89年、世界連盟やオーストラリアとのパイプを太くしJLSC独自の講習会を開催できるまでに貢献をされたJLGA事務局長『滝田信之』氏が退任し、後任の事務局長を私が担当することになります。さらに’90年4月から9月までの半年間に神奈川県が“人と海との共生”をテーマに「相模湾アーバンリゾートフェスティバル1990:SURF’90」を開催。日赤神奈川県支部とJLGAがそれに事業協力することとなり、「SURF’90環太平洋ライフ・セービング選手権大会 & シンポジウム」実行委員会とSURF’90ライフセービング推進委員会事務局も兼任することになりました。国内初の国際ライフセービング競技会とシンポジウムのほか実証実験的に週末毎に海水浴場以外(片瀬海岸・鵠沼海岸)でのボランティアによるビーチパトロールを実行し(’91年以降に鎌倉・茅ヶ崎へと展開し現在も続いています)SURF’90の各種イベントへ安全スタッフとしてライフセーバーを派遣するなど新しい試みも行いました。
シンポジウムでは、ハワイの“ウォーターパトロール”や参加各国の現状についての講演のほかに、ニュージーランドのパネルブースでジュニア/ユースライフセービングプログラムの内容が紹介されたほか、マリンスポーツと水辺の安全活動を通じて青少年教育に取り組む“ウォーター・ワイズ”プログラムなど実例の展示発表がありました。この頃既に小中学校を訪問する“水の安全教室”を開催し、臨海学校にライフセーバーを派遣するなど“ジュニアエデュケーショナルプログラム”を積極的に展開していましたが、それらの活動に大変参考になるものでした。
任意団体『日本ライフ・セービング協会』
当時SLSAJ事務局長だった『小林雅彦』氏とJLGA事務局長だった私とでそれぞれの団体が行っていた事業を継続展開することで詳細を詰めていき、いろいろな課題を抱えつつそれぞれの事務所を東京と湘南に分散したまま事務局長兼総務部長と事務局次長兼事業部長という役割を分担することにし、’91年春JLSA(後のJLA)が発足しました。多くの関係者から二つの団体を統合することについて「時期尚早ではないか?」と言う声もあり、反対する人も少なくはありませんでした。とくに双方の支部会員がいた大阪では全員が納得しておらず、単身で経緯説明会に出向いた際には反対意見の集中砲火を浴びました。ありのままの現状を踏まえ本音での意見交換をおこなったところ、会議終了時には全員の理解を得られて新たに双方の団結が生まれる瞬間が訪れました。その時の感動は今でも忘れません。「ライフセービング世界大会RESCUE’92」の日本開催も決定しており、このタイミングを逃していたらきっと今のJLAはなかったのではないかと思っています。また、団体の体制や運営状況によってライフセービング技術が右往左往されず、講習プログラムと認定資格が独立して永続できるように事務局とは別に“技術局”が設置され技術局長に現スーパーバイザーの『中見隆男』氏、技術局指導委員長に同じく現スーパーバイザーの『足立正俊』氏が任命され、私も両氏を補佐しながら資格制度と講習運営の内容をまとめていくことになりました。
この時に、全国的に“監視員”と呼ばれていた人たちを今後“ライフセーバー”と呼ぶのか?“ライフガード”と称するのか? それすらもしっかりとした議論がされないままでしたが、こういう定義付けを広く周知させていくことも講習会を通じてインストラクターに課せられた重要な役割であったと思っています。
地域活動の種蒔き
JLSA発足直後に最初の事業として「’91沖縄海の安全シンポジウム」を企画します。海上保安庁と日赤、全日空リゾートの協力、全日本空輸株式会社の協賛によって、石垣島、久米島と沖縄本島の万座ビーチホテルを会場に“海水浴場での溺水事故と救助体制の実際と今後”について考えるシンポジウムを開きました。第11管区海上保安本部、日赤沖縄県支部、沖縄県警察、消防組合、リゾート施設の代表とパネルディスカッションを行い、SLSAAより前述のデニス氏を招き基調講演をしてもらい“救助関係機関の連携の重要性”が挙げられました。JLSA最初の「ベーシック・サーフライフセービング講習会」も同時開催して、多くの海洋レジャー関係者等が集まって、ライフセーバーの存在意義と育成の急務が認識される機会となり、沖縄でのライフセービングの礎ができました。
日赤との協力関係
同年、日赤水上安全法がリニューアルされることとなり日赤の講習にもサーフレスキュー(ボードレスキュー、チューブレスキュー他)の内容を取り入れることが検討されて、初代理事長 故『金子邦親』氏を筆頭に私と『山崎博志』氏ほかJLSAインストラクターで日赤水上安全法指導員のメンバーが指導協力をして、当時の日赤高等科講師を対象にしたサーフレスキュー研修会が実施されます。この後より赤十字水上安全法教本にサーフレスキューの項目が加わり、ベーシック・サーフライフセービングの基礎的内容の一部が同講習会で扱われることになって、JLSAの存在とサーフライフセービングが日赤を通じて全国的に知られていくことになりました。JLAアカデミーの資格体系改編時や日本蘇生学会のガイドライン改訂時など日赤とは情報交換を密におこなっており、これは現在も続いています。
RESCUE’92
ライフセービング世界大会「RESCUE’92」実行委員会事務局を私が担当することになりイベント会社に出向します。この大会はバブル崩壊とともに協賛企業を獲得することが非常に難しく資金難での開催となりました。それでも外務省をはじめとする多くの省庁や団体の後援や協力をとりつけ、テレビ各局や新聞・雑誌等により広く報道され国内でライフセービングがさらに大きく認知されていく機会となります。“ライフセービング競技”が当然注目を集めましたが、シンポジウムにおいても学術的な講演などが行われ、なかでも人種差別によって教育を受けられず文字が読めない子供たちのために、絵本やパネルなどを用いて水の安全について学ぶ機会を作っているという南アフリカ代表の講演などは、わかりやすい講習を実践していく上でのヒントがあり印象的でした。フェアウェルパーティーでは、大会イメージソング「Remember My Love」(作詞作曲:スティービー・ワンダー)を歌った兄弟デュオ『ブレッド&バター』のライブがおこなわれ全員で大合唱し盛況に幕を閉じました。
Life Savers Live ’93
会員拡充と団体の法人化の必要性を強く唱えていた当時理事 故『金子英之』氏の発案で、社団法人化の資本金獲得のため「Life Savers Live’93 “ブレッド&バター”コンサート」を開催します。RESCUE’92で協力してくれた『ブレッド&バター』の兄『岩澤幸矢』氏は初代理事長と一緒に草創期の片瀬西浜海水浴場で事故防止活動に努め多くの人の命を救った私達の大先輩でもあり、収益金の使途に理解を示し快く出演してくれました。透明感のあるやさしい歌声とハーモニーは観客を魅了して素敵なイベントになりました。
この後JLSAは、法人化や団体の運営方法そして世界大会の負債をめぐる議論などNPO法人となるまでしばらくのあいだ試行錯誤しながら彷徨います。RESCUE’92 が終了してJLSA事務局に戻ることになった私は、いろいろな思いの中で事務局を離れ、その後の事業にはインストラクターの1人として参加していくことになります。
JLAアカデミー
20年近くの月日を経て、再び呼び戻されるように2010年JLA指導委員長を担うことになりました。それまでの間に米国赤十字社やオーストラリア・ロイヤル・ライフセービング協会ほかの教育プログラムを学ぶ機会もあり、JLAの講習運営及び教育プログラムと資格認定事業のリニューアルに取り組みます。そして入念な準備の後、2011年よりこれらの事業を『JLAアカデミー』と称してスタートすることとなりました。
ライフセービングの救命や救助技術のひとつひとつには学術的研究に基づくしっかりとした理由や背景がありますが、それらが正しく理解されずに伝わると、違った解釈で間違った技術や方法が広まって独り歩きしてしまうことがあります。“JLAアカデミー” を設置することで、それらを是正することとJLSA発足時の“技術局”同様に講習プログラムと認定資格が団体の体制や運営状況によって大きく変化せず独立して永続されること、そして救助技術とライフセービング全般の研鑽の他、インストラクターやスーパーバイザーの役割を明確にすることなどが併せて重要なことでした。SLSAも『SLSA ACADEMY』をスタートしていますが、それも参考にしました。’85年最初のJLSC講習会からJLSC→JLSA→JLAと数えて “JLAアカデミー” の歴史は2022年で37年、その伝統はJLAよりも長くなります。
わかりやすくしっかりとした教本の出版、確固たる指導要領の作成、優秀なインストラクターの養成と既存のインストラクターの研修・指導員規程の遵守、全国各地での講習会の開催と認定資格の発行。ライフセービングの指導団体として普及啓発をおこなっているJLAが担う最も大きな役割です。まだまだ改訂を重ねていく必要はありますが、現在4冊の教本が出版され書店で販売もされています。教本や講習運営の改善途上を担当した『荒井宏和』『稲垣裕美』両氏をはじめ出版を引き受けていただいた株式会社大修館書店編集第三部と、本の四色刷りに強いこだわりを持っていた当時理事長で現スーパーバイザーの『小峯 力』氏の尽力と貢献も大きかったと思っています。
私自身が望んでいたわけではなかったにも関わらず渡豪研修を機になにかに導かれるかのように団体の統合と発足、運営に大きく関わることになったことに不思議な縁を感じつつ、とくに“JLAアカデミー”のスタートは私に与えられた大きな使命であったのだと思っています。そのまま2012年には理事を一期担い、事務局長として財務状況等の改善にも関わることになりました。
ウォーターセーフティとJLAアカデミーの安全講習
内容は素晴らしいのに名称がしっくりしなかった既存の「ウォーターライフセービング」コースを、「ウォーターセーフティ」コース、「プール・ライフガーディング」コースに分け、「Jr.エドュケーション」コースを新たに加えました。“浮き身をとること=立ち泳ぎ”というイメージがありますが、下肢の動きだけではなく両手両腕を用いて浮力や推進力を作るスカーリング技術も共通して重要です。これらを併用することで、水面で安定した呼吸を維持し浮き身をとり続けることができます。キックボード (ビート板)に座ってバランスをとり方向転換や全身を安定させる動作をとることで、自然にスカーリング技術を体得することができるようになります。これもJLA独自のものです。さらにライフベスト、ライフジャケットなどと呼ばれるPFD(パーソナル・フローテーション・デバイス)は、浮力を確保し保温性能を持ち衝撃をやわらげる効果があることから、水中への転落、遭難や災害時に重要なアイテムでありながらもその活用方法を学ぶ機会が少なく、JLAの講習プログラムに1日でも早く組み入れてスタートさせる必要がありました。そんな時に東日本大震災が起き、遅れをとってしまったことを猛省しています。今後さらに広く全国への普及を進めていかなければなりません。
“目の前で人が倒れていたらどうするか?”という一般市民によるBLS (心肺蘇生& AED) 、それを学ぶ単独のコースを設置したことも必然でした。まだ国内のガイドラインがない頃に心肺蘇生の手順と方法は、最初オーストラリア方式(最初の人工呼吸は連続して5回、 顎先はピストルグリップで保持し鼻は頬で押さえながら呼気を吹き込み、胸の上に置いた手の手首をもう片方の手で握りその腕のみを垂直に伸ばして胸骨圧迫する方法)で指導していたものを、一般普及の必要性が高まる中で消防や日赤ほか国内の各指導団体と共通の手順と方法に変更しました。アスレティックトレーナーほかスポーツ指導者の必須資格としてもニーズが高まりましたが、スポーツ現場とのつながりをつくったことは当時副理事長で現スーパーバイザー『山本利春』氏の貢献が大きかったと思います。
また日本蘇生学会ガイドライン2010に基づいた「サーフライフセービング教本」の改訂と新たな「プール・ライフガーディング教本」には、「溺水時の熟練救助者によるBLS / PBLS」等を加筆しましたが、その内容は現メディカルダイレクター『中川儀英』氏と共に熟考を重ねた上反映したもので、JLA独自かつ国内唯一のものとなっています。
全国にたくさんあるスイミングプール。公営プールから民間のスポーツクラブや学校までそのどこででも水のアクシデントから自分の身を守る“サヴァイバルスイミング”を体得することが出来たらどんなに良いか?速く泳ぐ、長く泳ぐだけではなく水に親しむ、楽しく泳ぐ、安全につながる、そういうシステムが必要です。オーストラリアやニュージーランドでは主要なマリンスポーツとウォータースポーツ団体が加盟する『ウォーターセーフティ・カウンシル』が、統一した「ウォーターセーフティ」プログラムを普及啓発し、水泳教室でも全ての水泳教師が「ウォーターセーフティ」を熟知し同様のプログラムが実践されています。現在JLAアカデミーでは1日(実技半日)のみの内容となっていますが、幅広く数多い体験プログラムを今後どう普及展開していくのかをあらためて考えていかなければなりません。インストラクターはJLAの宝だと思っています。講習会に参加した受講者はかっこいいインストラクターに憧れ、ライフセービングの魅力にはまり取り憑かれていく。そんな様子を数多く見てきました。JLA アカデミーのインストラクターとそれをこれから目指す人達。その豊富な人材に大いに期待しています。
40年近く前、海水浴場の監視員の救助技術や知識を高めるために始まった講習は、いまや水辺の事故防止のためだけのものではなく、日常の生活から災害時まで一般市民に広く役立つ安全講習へと変遷を遂げようとしています。
半ば強引に統合してできた『JLA』、さらに20年後にスタートさせた『JLAアカデミー』。そのインストラクターの登竜門である“指導員養成プログラム”をはじめ、私を支え一緒に骨格を作ってくれた指導委員会『岡澤悟一』『阿部 健』両氏の協力なくしては実現していなかったのではないかと思います。 10年後20年後を睨んだ強い主張がゆえに理解されにくくいろいろ批判も圧力も抱えていた課題もありましたが、たとえ嫌われても正しいと信じて判断したことを、妥協せずに貫き通してきてよかったと振り返っています。信じて支持をしてくれたその時々のリーダーの適切な判断で、現在そして未来へとつながっています。
生きているということ
2014年末「プール・ライフガーディング教本」の執筆途中に自動車事故で頸髄損傷を負い一時重体となりました。バックボードに固定され遠のく意識の中で、頭部後屈ができない状態であっても鼻からの人工呼吸がとても有効であることを、身をもって体験できたことは大きな学びでした。首から下がほとんど動かないままで、おそらく一生寝たきりの生活になるであろうと宣告されていた長期入院中に、口述筆記やマウススティックを使いながら残りの原稿を執筆しました。さらに退院後に長時間に及ぶ校正作業を終えて無事に出版できたことは、何よりも感慨深い思い出のひとつとなりました。絶望の淵にも面した中で、魂をこめて教本作成をやり遂げることが“生きる活力”になっていたことを思い返せば、ライフセービングに関わっていたことで“自分自身が救われた”のだと考えています。
現在、四肢不全麻痺など重度の後遺症を残し車椅子での生活となりましたが、つかまり立ちで数歩の歩行ができるようにまでなりました。あたりまえだった、握ること、掴むこと、座ること、立つこと、歩くこと、泳ぐことが、実はとても難しいことで、人間の基本的動作が複雑な身体メカニズムで成り立っていることを再認識する毎日です。今も諦めずにインストラクターとして再起を目指しリハビリをしています。スーパーバイザーとしてその役割を果たせるように、ライフセービング関連文献などに目を通し研究も続けています。
ちょっと不自由な身体になってしまいましたが、いつか…決して不幸ではなかったと言える、そんな人生にしたいと思っています。
寄稿:上野 真宏(うえの まさひろ)
’84年 日赤水上安全法救助員資格取得を機にライフセービングを始める
(担当指導員がJLAライフメンバー 故『田中 裕』氏 以来師と仰)
’85年 WLS BASIC LIFEGUARD ’86年 JLSC ADVANCED LIFEGUARD
国際武道大学ライフセービングチーム(後のライフセービング部)設立
新島・式根島 初代チーフライフガード
SLSA of Australia Surf Bronze Medallion
JLSCサーフライフセービング / IRB / ウォーターライフセービング インストラクター
JLSCイグザミナー
日赤水上安全法 / 救急法 / 幼児安全法 / 雪上安全法指導員
JLGA事務局長 JLSC評議員
SURF’90環太平洋ライフ・セービング選手権大会 & シンポジウム実行委員会事務局
SURF’90ライフ・セービング推進委員会事務局
JLSA事務局次長兼事業部長 / 技術局指導委員会副委員長
RESCUE’92実行委員会事務局 実行委員長補佐
JLA サーフライフセービング / IRB / ウォーターセーフティ / プール・ライフガーディング / BLSインストラクター
JLA指導委員長
JLA理事・事務局長
現在 JLAスーパーバイザー