その昔!
各出場チームの選んだ曲に合わせて、チームや選手が紹介される中、思い思いのパフォーマンスをしながら入場します。
こんな開会式でスタートする、なんともアットホームな大会でした。
さらに、決勝の時は、選手の士気があがるよう、リクエスト曲をかける演出もしました。
私は、そのMCを担当していました。
大会運営本部テント設営よりも前にマイクとスピーカーはセットされ、日の出を迎え、閉会式終了後の撤収はいつも日没後、暗い中での作業、駐車場の営業終了時間のご案内、落とし物のお知らせまでが担当でした。
競技種目には!
Tug of War(綱引き)、Pillow Fight(枕たたき)の種目も組み込んでいた時期もありました。
泳ぐだけが、走るだけが競技ではなく、パトロールで培ったチーム力、ひと夏を共にしたチームメンバーが誰でも参加できるように、という発想で行いました。
室内選手権大会では、シナリオ競技スタッフの中に「役者/演者」チームなるものも結成され、衣裳などもこだわっていました。
ウォーターフラッグス競技があったことを記憶しているライフセーバーはいるでしょうか?プールの淵でヘッドダウン、ヘッドアップクロールでプール中央のフラッグを取る競技です。ジャッジ、スタッフはずっと立ち泳ぎという過酷な競技でした。
あの頃は!
スタッフの多くはジャッジをやりながら、選手として出場し、私もMCやりながらジャッジ、召集、集計、選手としても出場したことも?あったかも??
(その時の仲間は、まもなく、60歳を迎えます)
1991年(SLSAJとJLGA)統合されるまでは、前日にプログラムは複写紙を挟み作成していた記憶もあります。
初期の大会ではコンテナ設営などはなく、機材はいつも潮だらけ砂だらけ、コピー用紙もしっとり、メンテナンスはさぞ大変だったと思います。
レース用のボード(レスキューボード)も貸し出し、レスキューチューブも貸し出し、IRBも1台での運営でした。
下田のSurf Carnivalはその名の通り、夏目前のカーニバル(5月開催)、湘南の大会(9月・Interclub Championships)は夏のパトロール後のチームワークを披露するという特徴がありました。
9月開催の思い出としては、とにかく「大型台風来襲」でしょうか。私と当時の理事役員1名が嵐を呼ぶと噂されていたほどです。。何度か大会は当日中止、または開催をしたとしても全てのセクションで追加の作業が増えていました。
次に、国際大会〜大会運営についてのお話を。
Rescue88で100名近くのメンバーがエントリーをし、本場オーストラリアのライフセービングに触れ、地元クラブと交流をし、世界の壁を体験しました。
何より、日本ではレスキューボードで練習をしていたのですが、現地での大会事前練習で「マリブボード」という少し細身でストラップもなく、軽量なボードを渡され、このボードでレースには参加する、ということを知らされ皆で驚いていました。
多くの選手が現地で購入し、日本へ持って帰ったかと思います。
「マリブボード」日本初上陸です。
JALの荷物制限などの交渉をしたような記憶があります。
この大会がきっかけと言ってもよいかと思いますが、帰国後、国際基準に則った競技ルールの改正、大会運営、選手育成などが急速に進められ、同時に、初の国際大会「SURF90 Pan Pacific Lifesaving Championships」開催(平塚)がひとつの大きな目標になりました。
大会開催に向け、私は、オーストラリアと日本のリエゾン(連絡係)として、毎日、感熱紙が1本なくなるほどのFAXに悪戦苦闘した日々でした。
メールもなく、携帯電話も珍しい時代です。
SLSAAからは競技に関すること(ルールブック、器材の手配、ジャッジの統一など)に加え、会場整備、ホテル手配、輸送、会議開催会場手配、観光案内など幅広くリクエストが毎日容赦なく届きました。
そして、大会!
台風直撃で、海は大荒れ。
喜んで入水する外国人選手、早朝サーフィンを楽しむスタッフ!!
その横で運営サイドはとにかくミーティングを重ね、開催継続を審議、ジャッジとの調整、大会パトロールとの調整、自治体、取材、広報などへの連絡と慌ただしく動いていました。
この時初めて大きな大会であることを実感しました。
期間中、
平塚駅周辺は外国人で溢れかえり、夜は大騒ぎ、大暴れとなり夜中に呼び出され、現場で処理。
息つくまもなく、海岸付近で停車中の乗用車を持ち上げている外国人がいるとの連絡あり。厳重注意。
ホテルに帰るや身長2m近い選手がお酒を飲み過ぎ館内で大暴れの上、廊下で爆睡 などなど…
次の呼び出しが関係者ではないことを祈っていました。
こんな国際大会!
私としては成功だったのか?問題山積のままなのか?
日本のジャッジ、スタッフは何かを得られたのか?楽しかったのだろうか?
と色々考えていました。
でも、その先のRescue92(下田)へ繋がっていくこととなるので、全てを参考資料とすることで納めました。
1990年から1992年世界大会開催までに、日本ライフセービング評議会を経て、日本ライフセービング協会が設立されました。
統合を機にルールブック(日本版)作成をはじめ、国内大会運営の見直し、ジャッジ育成などが進められ、今度は浜松町の事務局へ何度となく通うことになります。
競技委員会メンバーは各人の仕事終わりに集まり、遅くまで熱い議論を重ねました。
その中に、ジャッジ、本部テントに張り付いていた「さんばば=3婆ア=3BBズ」などと呼ばれていた女子3名がいます。
今は、この3人なくしては当日運営ができなかったのではないか?と自負しています。
本部テント(江澤陽子さん)、ジャッジテント(柴田奈美さん)、そして、私が陣取り、かなり恐れられていたと聞いたのは、だいぶ後のことです。
女性の活動がままならない団体であった中、競技委員のメンバーとなり、国内大会運営、Rescue92開催へ向けルールブックを作成、競技を安全に円滑に運営するためのマニュアル作りなどに注力しました。
裏では、競技委員長より決定権を持ち、運営委員長より指示権を持ち、ルールのこと、進行状況のこと、スタッフのお弁当のこと、来賓のお客様への接客のことまで関わっていたように思います。
所属クラブ、年齢などの枠を超え、女性の位置付けを確立するべく、といえば立派ではありますが、3名の中では創成期に関われたことがとにかく楽しく、それぞれのライフセービング活動の中に役割をいただき、没頭できた日々でした。
そのまま、今もなお3人の関係性は続いています。
今回の投稿のお話をいただき改めてこの30年を振り返りました。
初期の時代に国内、国際大会運営に携わり、外部からライフセーバー、ライフセービング活動を見てみると、やはり、忘れてはいけない2つの柱があるのだと再認識します。
80年、90年代にライフセービング活動の普及、国際大会開催まで実現できたということは、内部的にはそこまでの先輩方の活動があったからこそであると強く感じます。
ひと夏のパトロールがあり、競技会がある、水辺の安全を考えるから、走って泳ぐ、事故ゼロを叶えるために示してきた道があることです。
そして、外部的には、豪日後流基金の援助なくしては救助体制も、大会開催の急速な発展も叶わなかったということです。
そのサポートがあったからこそ歩みを続けられたのです。
初期の運営に関わり、オーストラリアのパトロールマニュアルをいちから翻訳をしてくださった松浦さん、オーストラリアから日本へインストラクターの派遣、日本からオーストラリアへの派遣、研修を整え、いまでも変わらずにサポートを続けてくださっている久松さん、北村さんのお力がなければ、今のパトロールの体制、各大会が存在しません。
30周年を機に今あるライフセービングを今一度振り返り、記録を残し、歴史を再確認していくことの大切さを感じます。
同時に、振り返ることができる30年が重なっていることへ感謝をいたします。
「さんばば」の3名が本部テントに会することは残念ながらできませんが、この先へ続いていくことを願っています。
寄稿:田勢 美貴(たせ みき) 旧姓:疋田(ひきた)
・所属クラブ
西浜SLSC
・ライフセービングを始めた年
1983年
・ライフセービングを始めた理由、きっかけ
競泳引退後、なぜ海で、生まれ育った鵠沼の西浜で溺水事故が起こるのか悲しく思い救助員の資格(当時ライフセービングの言葉はない)を取得。
オーストラリアのマニュアルを翻訳し始め、興味を持ったのがきっかけ。
インストラクター資格を取得し、オーストラリアからきたインストラクターと共に各所で講習会を行う