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私とライフセービング

Vol.23 – 相澤千春 / Chiharu AIZAWA

2021.04.13 (Tue)

元々泳ぐことが大好きだったので夏には毎日のように近くのプールに通っていたことから、「赤十字の水上安全法救助員の講習を受けてみない?」と誘われ、片瀬西浜で受講したのが、都内から鵠沼に家族で引っ越して来て2年目の夏、19才でした。「私とライフセービング」を頭の中で整理するにあたり、「きっかけは?」と自問自答したら、やはりそこまで遡ってしまいます。高校生の時にガールスカウトですでに救急法の資格も取得していたのでステップアップぐらいのつもりで受講しましたが、海でのその講習は、色々な意味で私の想像を超えるものでした。JLA初代理事長の金子邦親氏(故人)はその講習会のベテラン指導者、そしてその後人生を共にすることになった主人もすでに指導員として活躍していました。私自身も指導員資格取得後、辻堂海浜公園プールでのライフガードや、湘南指導員協会での活動を続け、1975年には西浜・鎌倉のメンバーが中心となって米国ハンティントンビーチでライフガード研修を受けている間に、必死でテレビ局の知り合いに、我々の活動を知ってもらいたいとアピールして、彼等の帰国後に番組で取り上げていただく等、後方支援に務めました。米国ライフガードが履いているショートパンツを真似て、撥水性のある赤い生地を下北沢まで買いに行き、ミシンで何枚も何枚も縫いました。その後は、結婚・出産、1978年に主人と共にスポーツクラブ新規事業を始めたために、しばらく海やプールの活動からは離れていました。ところがそれから程なく「事務所がある、コピー機がある、FAXがある、器材が置ける…」などから、日本ライフガード協会(JLGA)としてそこに事務局を置けないかとの依頼を受け、夫婦で活動を再開しました。

1983年に、ライフセービングの先進国としてあこがれていたオーストラリアからSLSAの役員の方々(当時SLSA専務理事ガス・スタウントン氏他2名)が、すでに交流のあった下田を本拠地としていた日本サーフライフセービング協会(SLSAJ)と湘南のJLGAの活動を視察に来られました。そこから一気に私自身のエンジンも再稼働し、SLSAとの交流が加速したのでした。翌年には3名のインストラクターも来日して、現ILSの前身であったワールドライフセービング(WLS)の資格講習会が湘南でも開催されることになりました。しかしながら当時のJLGAには、彼等をホテルに宿泊させる資金など無く、スポーツクラブの敷地内にあった自宅の1室に巨漢3名ホームステイ。当時私の英会話はおそらく中高生レベル、なんとかよりスムーズなコミュニケーションを図れるようにと、事前打ち合せの手紙を書くにも(まだe-mailの時代ではないのでスペルチェックもありません)、和英・英和辞典をひたすらめくって何時間もかかりました。滞在中のお世話でも四苦八苦。彼等3人と家族5人(一番下の子はまだ赤ちゃんでしたが)のごはん、必死だったので、どうやって作っていたのか覚えていません。講習会の前夜には、つたない通訳の予習に彼等にもつきあってもらいました。こちら側の少しでも多くを学びたい、あちら側の少しでも多くを伝えたいという双方の情熱で交流プログラムが展開されたのです。この豪日交流基金の支援による相互交流は、JLGA・SLSAJ共に、その後5年間にわたり継続され、1991年のJLA設立に至ります。

’90年平塚でのパンパシフィック大会、’92年の下田でのRescue 92ではスタッフを経験、Rescue 98 (NZ) では、日体大からのクラブチームに随行などを経て、2000年オーストラリア・マンリーでILS総会が世界選手権大会と共に開催され、JLAから当時の金子邦親理事長の通訳として同行しました。2001年には、秋田で開催されたワールドゲームスでのテクニカルデリゲート、その後JLA内に情報戦略・国際委員会(現国際室)などが海外との窓口として設置され、そのメンバーとして世界選手権・全豪選手権など海外での大会や、ILS会議への同行、海外交流の際のコーディネートを重ねて来ました。その間に培ってきた海を越えての人と人との繋がりは、言うまでも無くライフセービングをキーワードに私自身の視野と思考を広げました。また大会に同行するときには、選手達が海外滞在中に少しでも居心地の良い環境を確保するためのサポートに全力を尽くすことで、自分の居場所を確認してきたように思います。2004年、SLSA主催によるDHL Asia Pacific Lifesaving Challenge というプログラムが香港で開催されるべく準備が進められていましたが、当時アジアで蔓延した感染症SARSのため急遽日本での開催受け入れ依頼がJLAにあり、大磯・片瀬西浜を会場として開催されました。このプログラムで、SLSAの方々と一緒にプログラムの実行本部のスタッフを務めたことは、とても良い勉強になりました。アジア諸国でのラフセービングスポーツの発展を目的としたもので、アジアの8カ国からチームを招き、1週間にわたりトレーニング、後半にプールと海で大会というスケジュールが組まれ、JLAチームは、オーストラリア・ニュージーランドのメンバーと共に指導スタッフも務めました。このときにホスト側のJLAとして、何人かの英語を話せるメンバーに各チームのサポートや、いくつかのコースに別れてのデイトリップのお世話をお願いしました。そのメンバーの多くは国際室のメンバーとして現在も大活躍しています。

私自身は、2008年にILS Equity and Diversity (公平性と多様性)委員会のメンバー、更に2009~2012年、2016~2021年にILS理事就任の機会をいただきました。ILS全体理事会は毎年、ILSアジア太平洋地区理事会は同時開催または別の機会にも開催されることがあり、一挙に海外渡航の機会が増えました。当初、委員会や理事会では、膨大な会議事前資料に目を通すこと、英語での議事進行を必死で聞き取ろうとすること、評決での意思表示など緊張と猛勉強の連続でした。英語を母国語としない理事は私だけではないので、会議の始めには必ず、そういう人への配慮を忘れずゆっくり話すようにと議長から注意が入るのですが、議論がヒートアップしてくるとみんなすっかり忘れて…、困ったときにはいつも隣の席の人に確認し、会議が終わってからも大事そうな所は確認し、慣れるまでは四苦八苦。会議は、必ず午前午後それぞれにティーブレイクがあります。そこで交わされる情報交換はとても大切で、世界で、あるいはアジアでのJLAの立ち位置や、普段あまり交流を持たない国々のライフセービング事情を知る大事な機会でもあります。JLAの話もたくさんするようにしていました。2006年から開催されている三洋物産インターナショナルライフセービングカップ(通称サンヨーカップ)のプロモーションなどはまさにこのようなときのロビー活動によって、今ではすっかり世界の強豪国に知られる国際大会となっています。ILS理事間の頻繁なコミュニケーションにより、いち早く国際イベントなどの情報を知ることにより、JLAとしての事前準備もスムーズに進めやすくなります。そして、そこで出会う方々のこの活動に対する情熱と思いは世界共通、フレンドシップが深まります。2017年には、ILS Dame というたいへん名誉な称号を頂きました。

WLC2018年(アデレード)開催時のILSディナーでの表彰式では、同席いただいた入谷理事長始めJLAの方々と共に受賞の喜びを分かち合えた事が忘れられません。

また、その喜びの瞬間にも一番頭に浮かんだのは、80年代に、「日本のライフセービング」の行く先に限りない支援を約束してくださり、その後もお会いする度に大きな瞳をぐっと見開いて、マシンガンのように叱咤激励を続けてくださったガス・スタウントン氏のお顔でした。今でもシドニーから車で4時間ほどかかる郊外の牧場で奥様と息子さんご家族と、90才を迎えてお元気にお過ごしとのことです。今とてもお会いしてみたいです。

数えてみたら、私にとってこの活動は「ライフセービング」と言う言葉がまだまだ世に馴染まない頃からで、すでに50年を過ぎてしまっています。なんとかこの活動を社会に認められる組織にするべきだと夫婦共々取り組んだこと、色々な小波荒波を越えながらもJLAが今を迎えていること、そして私自身が今もここに居られること、特に、かけがえのない経験の機会を与えていただけたこと、すべてに心から感謝です。この3月のILS総会(オンライン)で、通算7年のILS理事の任期を終え、現JLA理事、国際室長の中川容子さんにバトンタッチ、見事に当選を果たしていただきました。ILSの様々な委員会で、JLAの多数のメンバーが活躍しています。楽しみです。これからも今までの経験を活かしてできる限りのサポートをしたいと思っています。

相澤千春
Chiharu AIZAWA

日本ライフセービング協会 国際室
西浜SLSC

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