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私とライフセービング

Vol.92 – 比嘉門 鉄平 / Teppei HIGAJO

2026.06.26 (Fri)

ライフセービングとの出会い

私がライフセービングに出会ったのは大学1年生の夏でした。履修した体育の授業で偶然講師をされていた、沖縄県ライフセービング協会代表理事の音野太志さんに出会い、お誘いをいただいたのがスタートでした。当時、私の大学である琉球大学にはライフセービング部というものはなく、ライフセービングのイメージはただビーチにいるだけの管理人のアルバイトスタッフに過ぎないと思っていました。さらに監視場所である座間味島・阿嘉島の海は別名「世界が恋する海」と呼ばれるほど沖縄の中でも群を抜いて綺麗で自然豊かな海。今考えると大変失礼ですが、「綺麗な海に無料で行けるアルバイト」という軽い気持ちでこの世界に足を踏み入れました。

転機

パトロール後に初めて夕練をした日のことです。夕練の相手をしてくださったのは音野さんと柳原さん(えびちゃんさん)の大先輩ライフガード。その中に混ざったただの海大好きの比嘉門少年。練習内容は「ディープウォーターレスキュー」。海底に沈んだ溺者をレスキューチューブを使って水面に引き上げるレスキュー練です。まだうまく潜れなかった私は動画撮影係を立候補しました。事前の潜水練習で悲鳴を上げていた私は撮影係に逃げたのです。こんなきつい活動辞めようとその時強く思いました。水深は約5m、要救助者役の音野さんが沈み、海底の岩をつかみながら待ち、救助者役の柳原さんがレスキューチューブを肩にかけて潜ります。現在では潜水の達者なえびちゃんさんでも当時は不慣れで、2回目のトライで音野さんを水面まで引き上げました。うつ伏せに沈んでいるわけですから音野さんからは私たちのことも見えはしませんし、近づく音も海の底のため聞こえません。それでも音野さんは一度も浮上することなく長い時間待ち続けました。「なぜ長い時間潜っていられるのですか?」その質問に音野さんは即答で答えました。「だって、ライフセーバーが2人も俺の上で待機しているんだよ」と。えびちゃんさんの諦めない姿勢と太志さんの仲間への信頼とその一言に私はライフセーバーのイメージは180°変わり、そんなライフセーバーになりたいと思いました。今ではおかげさまで潜水は得意科目になっています。「辞めたい」と「続けたい」を同時に味わった日が私のライフセービング人生の本当のスタートになりました。

創部

大学2年生の夏、ある水難事故の話を聞きました。沖縄県ライフセービング協会が行っている自然海岸(管理されていないビーチ)の巡回に参加させていただいたときの話です。その巡回の前日にその海で亡くなった人がいました。私が一番よく通う大好きな海での事故でした。亡くなられた人は知人のお父さんで、その人は今でも海が嫌いです。巡回当日、事故のあった海では家族連れで賑わういつもの綺麗な海に見えました。私やみんなが大好きなこの海は誰でも嫌いになり得ることに気づかされました。
学生ライフセーバーの存在について知ったのもそのくらいの時期でした。座間味にはよく多くの浜からライフセーバーが訪れました。ほとんどが数個上の同世代の先輩方。ライフセービングのことになるとみんな一生懸命で頼もしい、何よりとてもキラキラして見えました。そんな学生生活をおくりたい、そして海を嫌いになってしまう人を減らしたい。そう思い、私は部活を作りました。
最初はほぼ1人で始まり、一緒に頑張ってくれる同期・後輩が徐々に増えてきました。同期や1個下の後輩には自分の意見を押し付け独裁主将として迷惑をかけてしまいました。ごめんねみんな、ありがとう。それから多くの後輩が一緒に頑張ってくれ、今では50人と大所帯部活になりました。まだまだ頑張ることは山ほどありますが、海を訪れる人が全員海を好きなままで帰れるよう部員一同日々励んで参ります。

感謝

私は多くのことをライフセービングから得ました。命の大切さ、海の楽しさ・怖さ、仲間、魚、コミュ力、休学した1年間、コーヒーのおいしさ、麦わら帽子、焼けた肌などなど。すべてあげるときりがないですが、ライフセービングに出会えてよかったです。大学を卒業すると沖縄を離れてしまいますが、それでもずっとこの活動には関わっていきます。
最後に、私のライフセービングに関わっていただいたすべての皆様、本当に出会えてよかったです。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。大好きです。

比嘉門 鉄平
Teppei HIGAJO

沖縄県ライフセービング協会所属
座間味村ライフガード
琉球大学ライフセービング部設立 初代主将

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